第1回 楢崎皐月氏の直弟子・松原喜一さんを訪ねて(5/7)4.楢崎先生の教えと人柄(続き)
(2) 楢崎先生の人柄
松原さんは楢崎先生との師弟関係で約40年間接してこられ「今から考えると、私は若いころより先生から色々なことを実践活動を通して端的に教わったとつくづく思う。」と楢崎先生のことを次のように回想され、お話いただいた。
・「電気は根本に通ずる。これが生物育成学問の全てに通ずる」、「微々たる物でも侮っては駄目だぞ!」とおっしゃておられた。
・先生はどんな人でも非難はしない。間違ったことでも本人には言わない。「私が36〜37歳ごろだったか、化成協会で発表しなさいと言われたことがあった。間違ったことを言っても、後からそっと気づかしてくれる・・・そんな人でした。」
また、僕らとお話して、先生の考えているレベルとはまったく次元の低いレベルのお話をしても絶対に見下さない。「よく考えたな、もう一つこう突っ込めばいい」と・・・・・本当に研究家のあるべき姿でした。
・先生は自分の素性は決して言わない人でしたが、僕は山口県の吉田松陰の松下村塾の教えを受けられた人なのかなと思ったくらいです。吉田松陰そのものでしたよ。
・先生は「間違っていようが、へたくそであろうが絶対に気にするな、間違っていれば、大人になって正して直せばよい。へたくそならば回を重ねれば上手になる!」と言っておられた。これが先生のものの考え方です。・・・対話の姿勢で学ばされました。身についています。 |
楢崎先生 |
・人に説明する、教えるといった時の先生はいつも明るい笑顔で、相手に緊張感や学識的圧力を与えず、張りと響きのある活気に満ちた声量で、又、説得されるときの迫力は先生独自の指導実践方法でした。
・戦後、先生は研究費が必要な時期に会員に協力を求めると言う形で研究費を捻出しておられた。「10年以内には必ずお返しいたします。」とのお約束です。先生のおっしゃるとおり10年後には必ず返金していただいた。“恩を受けた人には必ず恩返しする”・・・そういう人でした。
・楢崎先生は「受け入れてもらえるか、受け入れてもらえないか、という研究者の観点一つであの機器(静電気の機器)を作られたんです。「研究家として俺が考えて作った物を、民間の会社の金儲けのために使うというようなものの考え方では駄目だぞ。」といわれ、また、そんな考えは絶対に許さなかった方でした。
・「どんな優れた技術も一部の資本家や野心家に奉仕する結果となっては研究家の喜びはない。自分たちの開発した技術で、一般の人々が幸福のために上手に活用して喜んでもらえる。これが僕ら研究者の楽しみだ。」・・・・・と、人の知らない、隠れたところで喜び合っている。そんな姿が研究家・楢崎グループの姿であり、真の喜びとされておられました。
・楢崎先生は、「僕は研究家なんだ。研究家というものは表に出るものではない。学問の基礎作りを解明するのが僕たちの仕事。いかに一般の方に利益をもたらすかというのが僕たちの主旨であって、君たちの仕事だ。」とよく言っておられたものですよ。大衆の先に立って華々しい生活を夢見るような人ではなく、祖国を愛し、故郷を愛し、農民魂のある人達には「慈父」を感じさせるそんな先生でした。
・それから、私達にいただいた先生の大切な言葉があります。「われわれはこの世に生まれてきて、生きる為に与えられた任務を全うできるかどうか。」ということです。その為には
@人間がおぎゃーと生まれて死ぬまで健康でなければだめだ。
A声(正しい言葉)と心(清い心)を持ちなさい。
B家庭でのそれぞれの任務を全うしなさい。
・守る任務・・・女性の仕事と思って
・攻める任務・・・男性の仕事として「稼ぎなさい」
C金の使い方を学べ(金は身の回りについて必ず回る)。
・収入
・支出 4分割り方式
D感謝の心を忘れぬ人に成長しなさい。これが出来ない人は落伍者だ。
松原さんは、「現在でも通じる、人としての生き方の基本であると考えております。」・・・と。
(3) 楢崎先生との想いで
「先生は治金学の専門家でもあった。金物をみせたら素晴らしい人だった。刀、脇ざし、冶金を見せるとちゃんと良いものかどうか言い当てたものです。楢崎先生が満州にいかれた時は、もう既に鉄や金物に関してのレベルの高い研究をされていたようです。また、先生は“ものづくり”に関しては、非常に厳しい人でした。」と当時を思い出され、「こんなこともありましたよ。高岡にある三協アルミさん行ったときの出来事です。三協アルミの工場の人が「アルミをお皿に流し入れると、流された金属は固まる中に必ず空洞が入るので、空洞の入らない方法はないでしょうか?」と先生に尋ねられた時、先生は「溶鉱炉で溶かしたものが固まらないうちに打点波動力を与えてみなさいといわれた。」・・・・先生の言うとおりにやってみたら本当に空洞がなくなった。みんなはびっくりして見ていたら、“皆もやって見なさい。”ということで、私たち皆で実際にやってみたら、私達が作ったお皿にも空洞がないんです。本当に驚きました。」
焼法では1枚に伸ばした鉄板の質には部分的に優劣の箇所が必ずある、それらの鉄板の優劣の質を平均化する技術で、現在でも、船の看板などは電子焼法という技術を使って製造している。)
ある時(戦時中)、「戦車をぶち抜く玉をつくってくれ」と・・・・・・。先生は「国のためならやろう!」とおっしゃて本当に創りあげたんです。日本の鋼鉄技術はその頃から使っていたものなんです。
こんな楽しいエピソードもある。
先生がご機嫌のよい日のこと宴席で“松原君、今夜は、ぼくが一つキツネの踊り(舞)をしよう。”とおっしゃる。私達は当然、先生のどんな踊りが始まるのか楽しみに待っていた。すると先生は、“これは、いい酒だなー、この酒を2〜3本持ってきなさい”と傍の女中にいって持って来させる。まもなく“飲んでみなさい”ということで私達が飲んでみると、今、持ってきた酒と前の酒との味がぜんぜん違う。同じ銘柄のお酒なんですよ。トックリ内のお酒が各別級に変わっている。・・・・・ 驚いた!皆驚いた!これが先生のおっしゃる“キツネの踊り”なんです。・・・ つまり、電子の移動現象です。」
キ ツ ネ
“気 通 根” ・・・・・ “電気(電子)は万象生命の根本に通ずる”という先生の発想のことばだったんです。しかし、楢崎先生は“キツネの踊り”は、平素はなかなか公開されなかった。」
「楢崎先生は昭和38年ごろに富山に講演にこられた。これが、その時のお写真と資料です。」
その時の講演テーマは“植物波向上による増収への技法”(イオン調整)、集まった人数は約80名、楢崎先生からは“陰イオンを発生し植物、動物の生命活性化を実験する“という内容の指導を受けた。 |
富山で公演中の楢崎先生
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その頃、松原さんのグループでは水田農法の多収穫生産を目指して
E 密植技法
F 施肥実施などの研究に取り組んでいた。 |
東京の東郷神社であった勉強会を最後に、先生から勉強会を変えるという便りをいただきました。宇野多美恵先生と素晴らしい出会いがあり、カタカムナの研究は宇野先生に預けるということにしたらしいのです。
その後、2、3ヶ月経った時に5回ほど宇野先生のお宅に伺ったことがあります。私の持っていた楢崎先生から頂いた機械の設計図等もその折、全て宇野先生にお渡ししました。その時、トロンパイルという機械があったのですが、それは地球の電位差(ゼロコンマ何ミリという細かいもの)を一つのオイルの中に入れて電気を作り出す機械で、丸いドームの中に地面に25mの間隔でプラス、マイナスのアースをうって、その電位差を集約して電気を作る機械です。
それを企業が真似をしてやりだしたので公表せずに終わったことがありました。先生は『こんなものを作ったら企業の金儲けに使われる。』と不安げにおっしゃっておられました。」
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